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障害のある人たちが、街中を闊歩する世の中にしたい 1/5

2006年5月30日掲載

中途失明を乗り越え、障害のある方の自立を支援する活動を続けておられる、長野市障害者自立支援センター(マイステップ)の池田純さんにお話をお伺いしました。

正義感にあふれた青春時代

聞き手:

池田さんが失明されたのは、大学生の時とお聞きしていますが、それまでは、どのような夢をお持ちだったのでしょうか。

池田:

私は、長野県の北佐久郡御代田町という小さな街で生まれました。
中学2年のとき、弁護士になりたいと決めました。というのは、当時公害の問題がいろんなところで大きく取り上げられていたからです。四大公害が大々的に取り上げられており、はたと自分の身近を振り返ったときに、家の近くを流れる川に、工場から出る廃液が混入していることに気づいたんです。いつも泡が立っていて汚い川でした。「こういうのを公害というんじゃないの?」と中学生なりに考え、作文を書きました。先生も、それを読んで同じ気持ちになられたようで、作文は二重丸をもらいました。「よし、これで私の人生を決めた!」と思いましたね。

聞き手:

公害と戦う弁護士ですね。弁護士になろう、公害と戦おうと正義感にあふれ、大学も法学部に進まれたのですね。

池田:

そうです。早稲田大学の法学部に進みました。当時、過激派の学生運動は終息していたのですが、その残党が学校を闊歩していた時代です。不安定な時代だったんですよ。われわれ法学部の学生は、いろんな問題を追いかけ、走り回っていました。
たとえば、自衛隊の基地に反対する農民の物語を本にしたり、保育園を急にクビにされた保母さんの復職の問題を扱ったり、法学部の学生ならではの問題がいろいろあったんです。

聞き手:

中学の頃からの熱血が、ずっと今でも続いているんですね。

池田:

「なんとかしないといけない。」という気持ちはいつも持っています。
高度経済成長が進み、東京オリンピックも開催される一方、公害などの社会問題があり、矛盾がいっぱい吹き出た時代だったんです。右肩上がりの日本が、「ちょっと待てよ」と振り返りだした時代に、多感な思春期を過ごしてきました。だから、熱血に目覚めてしまったのかもしれません(笑)。

夢を目前にして襲った失明

聞き手:

視力が低下し始めたのは、いつごろなのでしょうか。

池田:

大学4年の時です。2年間で少しずつ見えなくなり、最後には、全く見えなくなりました。ベーチェット病です。大学4年の途中から発病したので、結局卒業試験は受けられませんでした。

写真:手振りを交えて説明する池田さん

聞き手:

弁護士になるためには、司法試験を受けなければいけませんよね。そこにたどり着く前に失明されたのですか?

池田:

大学5年の時に、一度司法試験は受けました。「見えなくなっても、なんとか司法試験はできる」と、友だちもみんな応援してくれたんです。一次試験は免除だったのですが、二次試験は、五者択一式でした。それを点字にすると、300ページぐらいになるんです。この90問300ページを時間内に解かなければいけません。晴眼者は3時間のところを時間延長してもらっても、どうやっても4時間程度では300ページを読めませんでした。その先の論文試験に進めず、断念してしまったんです。

発病してからの2年間は、それはすさまじい生活でした。もう、精神的におかしくなって、自分で自分を…などと、いつも死と向かい合っていました。生きる希望も何もなかったですね。しばらく、自分の世界に閉じこもっていた時期もありましたが、完全に見えなくなってしまうと、「できることをやっていくしかない」と開き直ることができたんです。それからは、何ができるのか、考えられることをたくさん試してみました。点字を覚え始めたのは、失明してから1年後だったんですね。発病してから3年程たったころです。

上田点字図書館の近くにアパートを借り、母親と二人で毎日点字図書館へ通いました。そこで、点字を覚えたんです。

2ヶ月くらい過ぎたころ、点字を教えてくれた先生に「大学を卒業して来い。」と言われました。大学に問い合わせたところ、点字受験ができるということだったので、改めて卒業試験を受けることにしました。3年ぶりの卒業試験にも合格し、卒業できたのです。


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